大鹿歌舞伎とは
大鹿歌舞伎は300余年前から、大鹿村の各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。歴史の変遷の中で、江戸時代から明治時代には、歌舞伎上演の禁令は厳しく、その弾圧をかいくぐりながら、村人の暮らしの大事な核として脈々と受け継がれてきました。
大鹿歌舞伎の上演が無かったのは、終戦の年などわずかであったことを考えると、大鹿村の地芝居は隔絶された立地条件とめまぐるしい社会変化の中で生きてきた村の人々の心の拠り所であり、祈りに似たものであったといえます。
定期公演
【春の公演】
5月3日正午より大磧神社舞台
【秋の公演】
10月の第3日曜日 正午より市場神社舞台
大鹿歌舞伎を育んだ里
大鹿村は、平安時代から荘園として開発されており、大河原鹿塩という所領の名で「吾妻鏡」にも登場しています。
重要文化財に指定されている長野県最古の木造建築である福徳寺薬師堂にそのその歴史の古さが象徴されています。隔絶されたかに見える山間地ですが、古道を通じて都の文化がこの村にも入っていたことが伺われます。
また、伊那谷は、民俗芸能の宝庫と言われるほど、多くの祭りを伝え、歌舞伎・人形芝居などが盛んな地域であり、各地に舞台も多く建てられ、三味線を弾き、浄瑠璃を語る人々も多かったといわれています。
大鹿歌舞伎が受け継がれてきた背景には、こうした村の人々の歌舞伎に対する愛着の土壌が豊かに育っていたことが挙げられます。
大自然に抱かれた舞台古来よりの観劇スタイル
大自然に包まれ、解放された空間の中で、まさに古来の観劇スタイルそのままに、境内にゴザを敷き、ご馳走を食べ、酒を酌み交わしながら芝居を楽しむ。
大きな見得や力のこもった所作が続くと、声援にも思わず力が入ります。
客席がどっと沸き、舞台と客席が一体となり、地芝居の何ともいえない魅力が生まれます。
芸能の原点である「心と心が触れ合う場」を生み出す大鹿歌舞伎の舞台には、熱く、豊かな地芝居のいのちが脈々と息づいています。
全国各地の地芝居を伝える村の中でも、大鹿村はその舞台の数の多さで抜きんでています。
かつて、小さな集落の氏神の祭りに、わずかな戸数の集落だけで歌舞伎を上演できたといわれています。
多くの人が歌舞伎を演じ、浄瑠璃を語ったこの村では、幕末から明治にかけて村内に点在する神社やお堂の境内13カ所に芝居専用の舞台が、神社の前宮などの名で建てられたという記録があり、現在は7つの舞台が残っています。
近年、春と秋の定期公演でもっぱら使用されているのは、大磧神社の舞台(下市場)と市場神社の舞台(塩河)の2つです。いずれも間口六間・奥行き四間の舞台で、回り舞台があり、上手に太夫座が付設されています。
耕地の少ない急峻な山々に囲まれたわずかな平地に生きる村人は、食を切り詰めてまで歌舞伎のための舞台を建立してきました。当時わずか数十戸の集落にこんなににも舞台が造られたのは驚きです。
今も残るこの舞台には、大鹿村の人々の心意気と底知れないエネルギーが受け継がれています。
全国各地の地芝居を伝える村の中でも、大鹿村はその舞台の数の多さで抜きんでています。かつて、小さな集落の氏神の祭りに、わずかな戸数の集落だけで歌舞伎を上演できたといわれています。多くの人が歌舞伎を演じ、浄瑠璃を語ったこの村では、幕末から明治にかけて村内に点在する神社やお堂の境内13カ所に芝居専用の舞台が、神社の前宮などの名で建てられたという記録があり、現在は7つの舞台が残っています。
地芝居初 国立劇場の舞台で上演
平成12年3月11日、地芝居として初めて国立劇場(大阪府)での大鹿歌舞伎が上演されました。大鹿村にのみ伝わる演目「六千両後日之文章 重忠館の段」が上演され、地芝居の素朴な魅力で歌舞伎ファンを魅了しました。
伝統を受け継ぐ 大鹿中学校歌舞伎クラブ
昭和50年に鹿塩中学校にて誕生した歌舞伎クラブは、そのまま大鹿中学校へと継承されました。
大鹿歌舞伎保存会の会員が指導にあたり、毎年秋にお年寄りを招いて上演を行っています。
伝統芸能に伝承を通じて、大鹿村の若き担い手たちが育っています。
平成12年10月には、大鹿中学校の歌舞伎班の生徒12名により、50年近く上演されず「幻の外題」と呼ばれてきた、「源平咲別躑躅 扇屋の段」を大鹿歌舞伎保存会常務理事・片桐登さんの三味線に合わせて見事に上演しました。
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